純粋主義について

あるものの本質を見極めようとする傾向は、人が生来持っている傾向ではないかと思います。私たちはものを把握するときに、単純化しようとする。それは単純に言語を用いるということではなく、ある統一された体系に定着させようとする傾向のことです。たとえば絵画に描き、たとえば式で示し、たとえば言葉で言い表す。
私について言えば、誰かに何かを伝えようとするとき、とにかく端的に表現したらどうなるかを第一に考えます。一言で言えばなにか。これがまず最初にくる。それが的確でない場合は、補足したり、別の候補を考えます。
けれど、よくよく考え直してみると、あるものが、それのみで成立する状況はけっこう考えにくい。というよりも、あるものを、端的に言い表すことができる状況は、それ以外のものではない、ということがはっきりしている場合に限られるということです。
たとえば、機能主義という流行がありました。形態が機能に従うと言われ、形態は機能の現れであると考えられていました。しかし、機能が生みだしうる形は、実際にはひとつではありません。私は機能主義という言葉をみるたびに、旧ソ連アメリカの作った、二種類の宇宙船を思い出します。大気圏を突破し、再突入するという目的を実現するために作られるならば、そしてそのために必要とされる機能がもし同じであったならば、両者はまったく同じか少なくとも似通った答えであったはずです。しかし、実際にはまったく異なる形態をもった、二種類の宇宙船が生まれました。形を決定するための余地が他にあったということになります。
この話から思うのは、機能と形態の結びつきは、一通りではないということです。一通りではない、つまり可能な結びつけ方が複数あるということの原因は、機能が決して純粋ではないか、あるいは純粋だとしても、私たちがそれを突き止める方法を知らないからでしょう。また、形態を実現するための過程が、必ずしも同じではないからだとも言えるかもしれません。おそらくまったく同じ条件下に置いても、そしてもっとも効率的な方法をあらかじめ知っていたとしても、二つのチームが完全に同じ者を作り出すことができるのは、非常に限られた状況にすぎないでしょう。
これは不幸なことでもなんでもありません。むしろ、創造性という点でとても大事なことだと思います。あるものが純粋な本質をもち、それ以外の何者でもないとしたら、私たちはそれ以上そのものを変えていくことはできません。(これはもちろん真実です)しかし、現実には、私たちはあるものを次々に作りかえていくことができます。私はこの余地が残されているということ自体が、純粋主義の反証に十分なるのではないかと思うのですが、さて、どうでしょう。
(英文日記を書こうと思ったのに、また日本語日記になってしまいました。どうなることやら。)