建築物と建築写真

建築物について、ドキドキする瞬間はいつ訪れるのかというと、たいていそれを写した写真を目にしたときです。特にそれが、これまで見たこともないような不可思議な空間であったり、美しい空間であったり、まがまがしい空間であったりするとき、私はその空間にある自分を想像してとても楽しい。
けれど、そこで私はいつも不思議な気分になります。私が感動しているのは、写真についてなのか、それともそこに写された建物についてなのか、はたまたもっと別の事柄についてなのか。
写真と共にあるのはあくまでも、写真に写された建築物なのであって、建っている建築物とは異なるものです。もしかするとこの言い方はよくないかもしれない。
言い換えるなら、写真に写された建築物も、建っている建築物も、どちらも私にとって何らかのアプローチを強いるものではある。ただ、そのアプローチの仕方が両者では相当異なっているのではないかと思う、ということです。
私はミース・ファン・デル・ローエの、意図的に水平垂直で作られた建物がとても好きだし、図面や写真を見る限り、私はおそらくその思想に惚れ込んでいるのだとさえ言えるかもしれません。でも、彼の建築物を前にして思うのは、ただひたすら圧倒的な大きさであったり、モリオンの意外なほどの繊細さであったりします。
これは私自身の建築物の見方なので、もちろん、建っているものを前にしてその思想の偉大さや滑稽さに思いを馳せる人がいたとしてもおかしくありません。
ただ、建築写真を見るたびにいつも思うのは、建築写真が建築を成立させるための一つの要因となっているようにみえる、ということです。建築物が流通するとき、それは誰かの言葉と一緒に、多くの場合写真によってである、ということに何か歪みはないだろうかと。(歪みという言い方は適切ではありません。私は決してネガティブな意味を込めたいのではないからです。他の言葉を思いつかないので、とりあえずこの言葉で置いておきます。)
つまり、「建築」というとき、それは私が住んでいるようなくたびれたアパートメントは指さないし、ハウス・メーカーの建てる建て売り住宅のようなものも指さないということです。それはある形式を持っているし、その形式を持つことによって「建築」であると言われうるということです。
それが建築であるために、デザインと必ずしも結ばれている必要はない。それは何らかの、特定の文脈の中で取り上げられ、飾り付けられ、写されることによって建築になります。
そして建築家もまた、それをなぞっている。建築家が建築家でありうる限り、建築は建築であり続けるでしょう。けれど、その形式がどういう仕組みで成り立っているのかを考えるなら、この肩書きが確固たるものである保証はどこにもないということは、自明です。
建築写真を見るたびに、私はその空間にひどく惹かれながら、同時に、その空間を作り出すことを彼や彼女に訴えたのはなんであったのかと思います。新しい感覚がそこに生まれることを喜びながら、何か自分では致し方のない流れの中にあるのかもしれないという思いから離れることができません。