考えることと生きること

わたしはつい最近までずっと、勉強することと毎日生きることとは別のことだと思っていました。理屈では、勉強したことが日々の生活に役に立つ、と理解していましたが、実感していなかったのです。つまり、「あ、つながってる!」って思う場面がなかった。
でも、ちゃんとつながってるんだなって、最近はとても強く思います。本を読むのも単なる課題や作業ではなくて、きちんと、わたしという人物をつくりあげている要素なんだと。
このことは、本には答えが書かれているわけじゃない、って気がついたことと関係があるように思います。わたしはつい、有名な本には人々が今まで気がつかなかった素晴らしい真理が書かれていて、わたしたちはそれをありがたがって読んで理解して身につければよい、と思っていたんです。が、そんなわけないじゃない、と。もちろん、素晴らしい視点や答えが本には書かれているのですが、本を読むというのは、それを習得するためじゃないなと思ったということです。本っていうのは、誰かが考えたことの断片でしかない。もちろん「集大成」なんて本もありますけど、やっぱりそれは作品としての集大成であったり、思想的な終着点という意味での集大成です。それを書いたひとの集大成、なんてことはあるわけない。それを書いたひとはその時々の社会状況の中で、家族や友人や孤独を抱えて、一生懸命考えたことをそこへ書き記したにすぎない。そのひとの生きた道は、本からはみだしてしまっている。
だとすると、きっと本を読むっていうことは、そういう人が生きた道の中で、なぜこういうかたちになってしまったのか、なぜその人はこの本をこういうかたちでしるしづけなければならなかったのか、それを考える手がかりなんだと思ったんですね。わたしが生きて、こうしてここに何かを書きつけていく、日々何かを考えていくということと同じように、その本の書き手も、日々を生きていた。わたしはその本を読むことによって、その本の書き手を知ると同時に、わたしの中でその本の中身が、どのように息づいているのか、どのように働いているのか、どのようにとりいれられていくのか、どのように生かされていくのか、これらすべてのことを知ろうとしているんじゃないかなと気がついた。
で、要は、勉強するのは何のためか、ってことがようやくわかってきたということです。勉強のために勉強してるんじゃ、まだまだ勉強の本質には至っていない。勉強は、生きるためにするものです。わたしという一人の人間がたくさんの人たちとどうやって関わっていけるのか、私の関わる社会の仕組みを動かすのはどんな力か、それはわたしにどんな影響を及ぼすのか。本を読むこと、知ること、考えること、これらみんな、生きることに強く強く関わっていて、わたしは生きるために一生懸命こうしたことを行っていきたいのです。もちろん、遊びだって、生きるためにちからいっぱいやらないとだめです。どうでもいいことなんて、ひとつもない。ぼーっとしてる瞬間も、ああいやだと思う瞬間も、わたしは相変わらず生きていて、誰かや何かと関わり続けているんだってことを、最近ようやく自覚したというお話でした。