デザインは特別なのか

昨日は、デザインは自由だ、という話を書きました。今日は、デザインの魅力から少し寄り道をして、デザインは特別か、ということについて書きたいと思います。というのも、昨日、父が電話でこういうことを言ったのです。


「オレのやっていることは、デザインみたいにすごいことじゃない。マイナスをゼロに戻す作業だ」


父は注文家具屋ですが、彼に家具の製作を依頼する方々は、特別なかたちを望んではいないと言うのです。少なくとも、いまよくないと思っている状態が、よいまでいかずとも、ゼロの状態になれば満足なのだと。だから、私の言うようなデザインは「すごい」ことなのだと。


ですが、私はデザインがものをつくるということにとって、特別な行為だとは思いません。ただ、もしそこに何らか特別なことがあるなら、決していまある形を安易に受け入れない、ということかもしれないとは考えています。だから私は父に、
「お父さんのやっていることも、じゅうぶんデザインだと思う」
と言いました。父は、
「お、そうか」
となんだか複雑な返事をしました。


ところで、デザインと哲学は、今後辿る道が似ているのかもしれません。それは常に「何の」デザインか、「何の」哲学かと問われることになります。一般的なデザインや、哲学が存在できる場所は(ごく一部の優秀なひとを除いて)、とても小さくなりつつあるのではないか。


では私はなぜいま、こんなことを書いているのでしょうか。それはやはり、専門家であるとしても、全体を見渡す視点が必要だと考えているからに他なりません。手を動かすとき、私はどこへ向かっているのか、立ち止まったとき、どこへ舳先を向けるのか。私がここで行っている作業とは、そのとき役に立つ羅針盤を作ることです。