モノが相手

そろそろ、最初にあげたデザインの魅力もおわりに近づいてきました。今回は、現実的なモノが相手だということについて考えてみたいと思います。少し長くなりましたが、お付き合い下さい。


私はここ4年ほど、ずっと哲学を専門にしてきました。4年前に(もっと言えば7年前に)デザインをやめて、この分野を選んだ理由は、道具と結果の純粋さ、でした。哲学を選んだ当時の私にとって、建築や、デザインは、不純なものでした。いろいろな分野が絡み合っていて、純粋な建築や純粋なデザインがよくわからないことに、不満を持っていました。ですから、哲学と出会ったとき、その純粋さにとても惹かれたのでした。


ところが、今の私は反対のことを感じています。確かに哲学は面白い。でも、その成果を発表するためには、ほとんど唯一の方法、論文を書くことしか道がないことがわかってきました。そしてそれと同時に、私は純粋に哲学的関心から哲学を探究したいわけではなかったのだ、ということにも気がついたのです。


つまり私は論文を書くこと、自分の哲学理論を構築し開陳すること、あるいは哲学者の思考を精緻に追い展開すること、それ自体には興味がなかったのでした。では、いったい何に興味があったのか。答えは、それらの思考がある形に結実することに、あったのです。


哲学は純粋です。ですがそのせいで、どんどん高みへ上り詰めてしまいます。そのようにして構築された理論はとても精緻で、ときに美しいとすら感じますが、私はそのとき、目の前に一冊の本だけを手にしている自分に気がつくのです。これほど美しく積み上げられた世界が、この、文字と文字とが織りなす概念的世界にしか存在しないということ、私たちは書かれた文字だけを頼りにそれを再構築するしかないのだということ、そしてもしそれを再生する術が失われてしまえば、その世界は永遠に失われてしまうのかもしれないということ。こうしたことに気がついて、戦慄しました。哲学は極めて営みであるために、どこかへ定着するということ自体が非常に難しいのです。


私は、かたちに残したいという欲求に抗うことができませんでした。私には哲学の潔さが耐えられなかったのです。私は、もし私の考えたことが現実の営みによって形になるとしたら、どのようなものなのか。それが知りたいと思いました。そして、できればそのような仕方で、人間の営みに関わりを持ちたいと思ったのです。
その意味で、建築やデザインという領域は、形に結実するプロセスまで含めて評価を受ける点でも、現在の私にとってもっとも適した場所だと感じたというわけです。


結局、たったこれだけのことに気がつくのに、4年費やしたことになります。大いなる回り道と呼んで差し支えないでしょう。でも、私にとっては必要な道だったと感じています。そしてまた、私にとって糧となった道だったとも思います。この道を通ることで、以前は見えなかったもの、考えられなかったことが、見えるように、考えられるようになりました。